わたしの新しい世界 -アメリカ留学体験記- ジョン・オカダ「ノーノー・ボーイ」によせて


私は「わたしの新しい世界 -アメリカ留学体験記-」を書いている。体験記を書こうと思ったきっかけは、自分がアメリカで体験したことを文章で残そうと思ったからだった。そして体験記では特に非白人、非英語ネイティブのアジア人として、私がアメリカで体験したことを記録したいと考えていた。

けれど実際、それは簡単なことではなかった。私にとってアメリカで受けた人種差別的な出来事の数々を思い出すのは想像以上につらく苦しいもので、できることなら忘れたかった。私は長い間体験記を更新していないけれど、本当は続きがすでにいくつか書いてあった。でもそれを完成させるのにその文章を読むと、当時の傷付いた時の生々しい気持ちや激しい怒りの感情が現れて、上手く向き合うことができなかった。体験記を書き始めてから、このことを書くのにはとてつもない気力と覚悟が必要なのだと知った。

「ノーノー・ボーイ」という小説がある。第二次世界大戦時にアメリカが行った日系人強制収容や日系人に対する差別、アイデンティティの問題などを扱った作品で、日系アメリカ人二世作家のジョン・オカダが唯一残した作品。アジア系アメリカ人文学における金字塔的な作品だが、この本は1957年に一度出版されたまま注目されることはなく、70年代に数人のアジア系アメリカ人作家たちによって「発見」される。白人作家の作品ばかりがアメリカ文学とされていた頃、当時これを見つけた彼らにとって、「自分たちにはジョン・オカダがいた」と、唯一自分たちと同じアジア系の偉大な作家として誇りに思える存在になったという。*

私がこの作品のことを知った当初、70年代に出版されていた翻訳版は絶版になっていた。その時は一旦諦めたが、体験記を書くにあたってアメリカでのアジア系やアジア人に対する差別について考えるとき、この本を読むべきだと思った。そしてついに重い腰を上げて英語版に手を出そうとしたところ、とても幸運なことに2016年に新訳版が出ていて、今回日本語で読むことができたのだった。

「ノーノー・ボーイ」を通して見るアメリカは、まさに私が見たアメリカだった。そして今までアメリカ文学を読んだ中で、これほど自分のストーリーだと思える作品はなかった。この作品を「発見」したアジア系の作家たちは、きっと私以上にそう思ったのではないだろうか。この作品を見つけた時の彼らの興奮が少し分かった気がした。私は主人公イチローの内なる葛藤に共感し、戦争や差別によりそれぞれ傷を負っている登場人物のセリフに何度も胸を打たれた。

もちろん私は日系アメリカ人でもなく、アメリカ人になりたいわけでもない。ただ、私はアメリカで暮らしていたとき、一人の尊厳のある人間として社会から扱われたかった。けれどアメリカ社会が私に突きつけてきたのは、アジア人の私は人間として不足しているということだった。今までマジョリティとして生きてこれたことが幸運だったのかもしれないが、そんなことを感じたのは今までで初めてだった。私は頭ではアメリカで自分は外国人なのだと理解しながらも、そんなアメリカに腹が立ったし、許せなかった。

その後、「グローバルな視点」や「世界」を意識すればするほど、この世界は欧米至上主義と白人至上主義で回っているいう事実ばかりを思い知らされた。しょせんこの世界は白人の価値観で回っていて、白人の作るもの、白人の評価するものだけが「世界基準」で価値のあるものなのだと。

その基準にうんざりしていた私はそういったもの全てから距離を置きたいと思った。以前は夢中だった白人の音楽はもう聴きたくないし、白人の作った映画はもう観たくない。日本でもアジア人なのにアジアの文化を見下し、欧米の白人文化を崇めている白人の価値観を内面化したような人達を見ると無性に腹が立った。そしてこういったことを通して、かつて自分も白人文化を白人側の気持ちで消費できていたのは、日本でマジョリティとしてのうのうと生きていられたからだと痛感した。

それでも私はまだアメリカの文化を憎みきれていなかった。たとえアメリカが私のことを否定したとしても、幼い頃からアメリカの文化に憧れ、米国至上主義をいつの間にかインプットされてしまっていた私は、全てを投げ打ってでもアメリカへ行こうとするほど、アメリカの文化を愛していた。アメリカを許せない気持ちと、愛する気持ちとで一つの心がそれぞれ逆方向に進んでいくようだった。

けれど、留学当時私はアメリカでは外国人だという自覚があったため、主人公イチローのように自分の祖国に裏切られている気持ちにはならなかった。でももし、ここが私の祖国で、今と同じ外見のままにアメリカに生まれていたとしたら。「ノーノー・ボーイ」は私にとってそんな物語だった。

アメリカ社会におけるアジア人の扱いについて許せないことはたくさんある。けれど、時にそれを上回って対抗する「アメリカの良心」を体現しているような人がたくさんいるのもまた事実であること。これが未だに私をアメリカから精神的に遠くへ行かせない大きな理由のひとつとしてある。それを描いていたのもまた「ノーノー・ボーイ」だった。私は気軽にこの言葉を使うのは好きではないけれど、私にとってのアメリカの「本質」は「ノーノー・ボーイ」にある。

イチローがいうように、私はまたこの世界を愛さなければいけないのだと思う。何度裏切られ、傷つけられても。そして信じる努力をしてみる。世界はもう少し優しいものかもしれないと。でないと私は世界を許せず、自らから出た毒で死んでしまうだろう。

ジョン・オカダはそのことを教えてくれた。そしてまた一歩踏み出す勇気をくれた。これは誰かにそうしようと言っているのではなく、私自身との戦いだ。 今のアメリカや世界は、ジョン・オカダが望んだような方向には向かっていないのかもしれない。けれど、今この作品が読めてよかった。この財産を残してくれた偉大な作家に感謝したい。

 日系人のカルチャーを扱っているウェブサイト「ディスカバー・ニッケイ」で「ノーノー・ボーイ」翻訳者の川井龍介さんが連載されていた記事がとても読み応えのあるものなのでリンクを貼っておきたい。

第1回 「ノーノー・ボーイ」とは何か


Tsukasa
Sister Magazine編集長。文筆やインタビュアー、ときどき翻訳をして活動中。
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