魔法の呪文「リュ・ドゥ・ラ・ポンプ」

すっかり寒くなってきた今日この頃。朝、外を出た時に、室内であったまった頬がキリッと冷やされて、鼻の中がつんとするような大気に触れるたび、思い出すことがあります。わたしが勇気を出すために唱える魔法の呪文のことです。

リュ・ドゥ・ラ・ポンプ
リュ・ドゥ・ラ・ポンプ
アトンシオン・ア・ラ・マルシュ
アン・デサンダン・デュ・トラン


10年前、わたしは17歳で、超短期語学留学のために2週間パリに滞在していました。映画「アメリ」に影響されて、強い憧れを持って、大はりきりでステイ先に到着したものの、オートロックの暗証番号が教えてもらったものと違うというトラブルで出鼻をくじかれました。中へ入れたは良いものの、5人家族と聞いていたのに出迎えてくれたのは家族構成リストにない謎のおじいさん(結局何者だったのか最後まで分からなかった)ただ1人で、シャワーは水しか出ずまるで苦行のようで、なんだかもう、色々と「話が違う!」の連続でした。あまりの幸先の悪さにわたしの心は沈み、水で冷えた体をベッドの中でこれでもかと丸めて、手足をすりすり擦り合わせながら眠りました。  

パリの朝は暗闇に包まれていました。時計を合わせ間違えたのかと思いましたが、どうやら本当に日が昇るのが遅いだけのようでした。わたしは前夜おじいさんに言われた通り、キッチンでシリアルを引っぱり出して食べ、ミントの香りのする緑茶をいれて飲みました。 

夜に雨でも降っていたのか、石畳はしっとりとしていました。近くのメトロの駅からの乗客はわたしだけのようでした。メトロに揺られているあいだ、わたしはパリの曇天のように憂鬱でした。初日にも関わらず学校に行くのがおっくうで、フランス語なんて一言も話したくないと思っていました。だって、あんなに夢見たパリなのに、何ひとつ素敵なことがありませんでしたから。かと言って、自分の家は海のはるか彼方だし、携帯電話も使えないしで、とにかく目的地に向かうしかない身の上なのです。メトロの車内で、わたしは時差ぼけでボーッとした頭で孤独に打ちひしがれていました。車窓からは何も見えず、ただ血色の悪いわたしの顔だけが写りこんでいました。 

リュ・ドゥ・ラ・ポンプ
リュ・ドゥ・ラ・ポンプ 
アトンシオン・ア・ラ・マルシュ 
アン・デサンダン・デュ・トラン 

歌うようなアナウンスが流れ、メトロは「ポンプ通り」の駅に停車しました。フランス語のたどたどしいわたしでも、その文言が「電車を降りる際は足元に気を付けて」と言っていることが分かり、聞き取れたことで少し嬉しくなって、席を立つ元気がでました。改札を出て、長い階段をえっちらおっちら上がると、日が昇り始め明るくなりつつある曇った空が見えました。頬がキリッと冷やされて、鼻の中がつんとする大気に触れると、頭がみるみる冴えてきました。 

リュ・ドゥ・ラ・ポンプ 
リュ・ドゥ・ラ・ポンプ 
アトンシオン・ア・ラ・マルシュ 
アン・デサンダン・デュ・トラン 

頭の中でアナウンスがぐるぐる回っています。石造りのアパルトマンの立ち並ぶポンプ通りは、静かでしたが、人の気配に満ち、これから始まる一日の予感に溢れていました。 

わたしは勇気を出さなくてはいけない、と思いました。これからこのポンプ通りを抜けて、ヴィクトル・ユーゴー広場の語学学校まで行くのです。寒さと緊張で足が震えているけれど、気づかないふりをして踏み出しました。


ポンプ通りを歩いているあいだ、わたしは自分の中にふつふつと湧いてくる何かを感じていました。今まで、雨が降ったら自力では学校まで行けないような田舎街に暮らしていて、そういえばひとりで電車を乗り継いでどこかへ行くということがありませんでした。怖いことはしたくなくて、人と競うこととか、ハラハラドキドキとか、そういうのをずっと避けてきました。いま、生まれて初めて勇気を出し、冒険をしているのだと思ったら、「わたし、意外と勇敢なところがある」という気持ちになったのです。一歩一歩と石畳を踏みしめるたびに、自分の中に勇気が湧いてきて、それが体に染み渡っていくような気がしました。 

 *** 

生きることは、勇気を積み上げていくことのようだと思います。自分で物事を決めるのは、勇気の要ることです。周りに流されて意思を曲げても、意思を曲げると「決めた」のは自分であり、それは自分の選択です。  

パリから10年後の冬、わたしはひとつの決断をしました。同居していた相手と離れて、ひとりで暮らすことにしたのです。大きな決断でした。一生添い遂げるものだろうと思っていた人でした。ここでひとりになるということは、もしかしたらもうこの先、ずっとひとりかもしれないということです。でも、わたしはそれでも良いと思いました。決断のために、ありったけの勇気を振り絞りました。 

今、わたしの気持ちは、パリでの初めての夜と同じです。冷たい手足を擦りながら、ぎゅっとちぢこまって、どうしてうまくいかないのだろうと暗闇の中で思いをめぐらすばかり。でも、そのあとわたしはちゃんとひとりぼっちで街に飛び出して、ちゃんと毎日学校へ通って、ちゃんと行きたかった美術館まで行きました。わたしはモンマルトルのアメリではなく、岩手県のジュリーのままだったけれど、それでもかまわない。勇気を出した記憶が、冬の空気と結びついていさえすれば、わたしは冬が来るたびに無敵になれる気すらするのです。  

リュ・ドゥ・ラ・ポンプ
リュ・ドゥ・ラ・ポンプ 
アトンシオン・ア・ラ・マルシュ 
アン・デサンダン・デュ・トラン 

呪文を唱えよう。勇敢であるために。17歳の女の子の勇気をお守りに。足元に気を付けて。 

ジュリー下戸
歌舞伎とインターネットが好きな独身アラサー派遣社員。能天気なブログと 自己満フリーペーパーとお気楽絵日記を書いています。本当に下戸。

ブログ「ジュリー下戸の歌舞かれて東京」http://jurigeko.hateblo.jp/
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