女性も男性も自分のオリジナルレシピを交換し合えるような社会に 柚木麻子さん『Butter』インタビュー –


前回のインタビューでは「女性を描き続ける小説家 柚木麻子さんにインタビュー」というタイトルで、いままで女性同士の関係について多く書かれてきた柚木さんに女性同士の友情や、連帯について伺いました。今回は昨年4月に刊行された実際の婚活殺人事件をモチーフにした作品『Butter』についてお話を伺っていきたいと思います。

──柚木さんはいままで『ナイルパーチの女子会』など、女性同士の物語を多く書かれてきましたが、今回『Butter』では柚木さんの今までの著書と比較をすると、被害者が全員男性の事件がモチーフになっているということもあり、登場する男性の数が今までの作品と比べ多く、登場する男性それぞれが苦悩し、問題を抱えているように思います。

今回の『Butter』は主人公の里佳、親友の伶子そしてカジマナの3人の女性を軸とした物語でありながらも、彼女たちを通して見える、男性をとりまく問題を扱った物語であるようにも感じました。たとえば、女性が時間をかけて整えた暖かく優しい食事か、ひとりぼっちのわびしく貧しい食事しか存在しないというような食事に対してとても極端な考え方を持つ被害者男性たちや、妻子と別れてから自らを大切にできず荒んだ生活を送っている篠井さん、そして1人で亡くなった里佳の父などです。こうした男性たちを取り巻く問題を扱おうと思われたきっかけについて伺いたいです。

私自身、離婚していた父が1人で亡くなったということがあって、そもそもこの事件のことを聞いたときに父の姿が脳裏にちらつくなと思っていました。 以前、雨宮まみさんが「九州の女子は家を出るときに父親を倒さないと出られない」と書かれていたことがありましたよね。それはすごく分かるところがあるんです。もちろん全員がそうなわけではないし、父親がすごくサポートしてくれるという人もいると思います。でも女性が自分の夢を実現しようとするとき家父長制を破らないと叶わないことってあって、そのせいでいちばん最初に倒さなければいけない人が父親になるということは多々あると思うんです。だから娘と父親との軋轢ってなかなか避けられなくて。その上、家父長制の中でもがいて飛び出したとしても、やはりまた家父長制に縛られてしまうという問題が私や、私の周りにもありました。 「じゃあどうすれば父親と和解できるんだろう」と。書くことのきっかけとして、家父長制から自由になりながら父親と和解することは可能なのか、という疑問がありました。女性同士の話を書いていくと、どうしても家父長制の問題が浮かび上がってきてしまうんです。

──父親と上手くいかず最終的には孤独死した父を持つ里佳と、父親とは恋人同士のように密接な関係を築いていたカジマナ、この対比が印象的でした。『ナイルパーチの女子会』でも娘が父親との関係を見直す、というテーマが扱われていたように思います。このテーマを扱われることについて伺いたいです。 

『ナイルパーチの女子会』の時はもうすでに私の父は亡くなっていたんですが、その辺りから自分の中にあるしがらみのようなものと向き合わざるをえなくなってきました。 私の中には「私は父をもっとケアしてあげればよかったんじゃないか」という気持ちと、母のほうにすごく肩入れをしていたという自覚があったので、すごく複雑で割り切れない気持ちがありました。父のことを愛してもいるけれど、理解できなかった部分もある。 やっぱり父親を倒した経験がある女性の多くはどこかで罪悪感も持っていると思うんです。罪悪感を持つ必要がないと言われても、愛している家族だから持ってしまう部分がある。その罪悪感とどうやって向き合っていくかということと、それじゃあ間接的な和解は可能なのかという疑問がありました。それが里佳にとっては篠井さんとの関係に表れていて、里佳は篠井さんを通して間接的に父親と和解をしているんです。

たとえば『赤毛のアン』のアンも自分の父親の顔は知らないのですが、年上の性が介在しない父親や兄のような存在のマシューとの関係によって、間接的に父親を許しているんです。少女小説って今読んでみると、父親をどう許すかということがテーマになっているものがとても多いなと思います。『若草物語』の作者も実際は父親とものすごい軋轢があって、だから『若草物語』には父親が出てこなかったんです。少女小説を読むと父親が不在だったり、父親を探すというお話が多いと思います。『小公女セーラ』も父親が途中から消えてしまうんです。だからその当時の女性作家たちの中でも父親をどう超えるか、そして超えてしまったときどうやって和解するかということが大きな課題だったんだと思います。『風と共に去りぬ』も家父長制にどっぷり浸って生きてきた保守的なお嬢様が父親が戦争によって廃人になってしまったせいで父親代わりをしないといけなくなって、そのとき自分が父親より優秀であるということが分かってしまうという部分があるんです。女性の物語が描かれるとき、父親を超えてしまった女性はどうすれば良いのか、というのはテーマとして多く扱われていると思います。

──たいていの人間ならたやすく翻弄されてしまうような強力なパワーを持つカジマナに対して、親友の取材に同行し、真っ向から挑んでいく伶子はとてもパワフルで、強烈に印象に残ります。伶子というキャラクターはどのように構想されたのか伺いたいです。

この話はもともと里佳がカジマナに翻弄されたまま体を明け渡してしまったり、里佳がカジマナの闇に引きずられていく話になる予定でした。最終的には里佳が消えてしまって、伶子が里佳を探しに行くシーンで終わるはずだったんです。おそらくもっと性描写も多かっただろうし、心の闇という穴を書くはずでした。 ですが、伶子を登場させて伶子が里佳の新潟取材についていった時点で話が全く変わってしまったんです。私も意識をしないところで、伶子が一体あの事件はどういうことだったのかという結論を先に言ってしまいました。 本当は里佳がカジマナと関係した人たちの家に行ったり、カジマナの所属していた売春組織に入るという構想もあったんですが、伶子がそれを全部代わりにやって、その上で性的なことを起こさないでカジマナに関わった男性と同居をするじゃないですか。そして伶子が里佳の肩代わりをしたおかげで話は全然違う方向に行ってしまったので、肩透かしをくらった人はおそらくたくさんいると思います。 伶子は里佳のことが好きなんですよ。この部分は最初からぶれないようにしています。ただ、自分の知っている里佳が変わって、唯一の拠り所が消えてしまうということを伶子は恐れていて、焦っておかしな行動に出てしまうんです。でも伶子は最終的には里佳の変化を受け入れられる人です。そして、おそらくカジマナが何億積んでも手に入れられなかったのが伶子です。それと同時に伶子とカジマナは実は表裏一体で、父親と恋人のような密接な関係だったということも含めて、この2人は非常に似ています。 伶子はカジマナであり、カジマナは伶子なんです。元の予定では最後に伶子が自分自身の強さに目覚めるところで終わるはずだったんですが、伶子は非常に早い段階で暴走をしてしまったので、その必要がなくなりました。だから、伶子の行動で物語が方向付けられたところがあります。


──作品後半で擬似家族のように里佳や伶子、北村くんや内村さんが篠井さんの家に出入りをして共同生活を送り、それぞれが人と過ごす呼吸をつかんでいくような様子がとても魅力的に思えました。このシーンの構想されたことについても伺いたいです。  

彼らが擬似家族のように共同生活を送ることになるシーンはメラニーという犬が登場したことによって、伶子は家出はしても里佳の家には住めないという枷になったので、たまたま起きたことでした。 なぜメラニーが登場したかというと、新潟の神田酪農さんに私の親友と一緒に取材に行って牛の世話をしたんです。その親友は昔すごく大切にしていた愛犬を亡くしていて、彼女は亡くした犬が大好きなので、新しい犬を飼わないんです。それで彼女が牛を見たときに自分の犬を思い出して、「わたしの愛犬に似てる」と言いながらずっと牛を撫でているうちに、牛が大好きになってしまったんです。それを見ているうちにふと「伶子に愛犬を取りに行かせよう」と思いついて、それが発端になっています。 なので実はこのシーンを構想したというよりは伶子が危険な冒険に出る時に相棒である犬を連れて行ったことによって必然的に生まれたシーンなんです。私が食のシーンを仕掛けたかったのは家族でも恋人でもない擬似家族というものを描きたかったからなのかな、というのは書いているうちに気がつきました。

──この作品に登場する料理を絶対にしようとせず、「女性が手をかけた手料理が食べられないくらいなら」と荒んだ食生活を送り、自分を大切にできない男性たちを見て、「家事は女性がするもので、男性が家事をするのは格好が悪い」というような風潮は女性からも選択の自由を奪い、家庭に縛りつけているけれど、男性を女性に依存しないと生きていけないようにし、自立する力を奪うのではないか、というふうにも感じました。また、篠井さんの「男一人でも食事に気を使って生きていかなきゃいけないのかな」というセリフがとても印象に残りました。こういったふうに女性にケアされない自分に対してセルフネグレクトをしてしまう男性たちを描こうと思われたきっかけについて伺いたいです。

セルフネグレクト問題って今後も書いていくと思うんですが、女性でも男性でも自暴自棄になることはあると思うんです。女性もセルフネグレクトに陥ることはあるし、里佳のこの常軌を逸した働き方はある意味セルフネグレクトだと思っているので、セルフネグレクトは男女限らず起こるとは思うんですが、ただ、男性の方がセルフネグレクトに陥りがちなのは、風潮や抑圧のせいもあると思います。おそらく独身男性の何が居心地が悪いかというと、「世話をしてくれる女の人もいなくて大丈夫?」みたいな周りからの抑圧だと思うんです。それって本当にセクハラだと思うんですよ。今も家事や育児に関するジェンダーロールの問題ってたくさんあると思うんですが、男性も女性も自分で自分の世話をできれば楽になることってたくさんあると思うんです。自分の世話をすることって大変なことだとつい思ってしまうかもしれませんが、それができることによって逆に楽になると思うんですよ。男性も「自分を凌駕するような女性を好きになるなんて傷つくに決まっているんだから好きになってはいけない」みたいに、どこかで自分をケアしてくれる、自分を凌駕しない女性でないと好きになってはいけない、みたいな枷ってあるじゃないですか。 でももっと自由に人を好きになっていいと思うし、そうなってしまうのもやっぱり今の社会の価値観を押し付けられた結果だと思うので、ひとりひとりが自分をケアできるようになって、最終話にもあるように男性も女性も、手の込んだ料理じゃなくてもいいから自分のオリジナルレシピをたくさん持って、それをみんなで交換できるような社会になればいいなと思いました。


──本作を読み終えたとき、カジマナの登場によって価値観を揺るがされる里佳や、周囲の人たちが強く印象に残りました。そう考えてみると、『ランチのアッコちゃん』に登場するアッコさんもまた、主人公の価値観を揺るがす存在であるように思います。ですが、お客さんの顔や体調を見ながら手作りの食事を提供することがしたいというアッコさんと、相手の体調や好みを無視したまま「男の人の胃袋を掴むのは肉じゃが」的な考えを持つカジマナの価値観の違いがとても興味深いと思いました。2人とも「食」にこだわりがあり、強烈な印象を残す女性だと思うのですが、この2人の決定的な違いはどこだと考えられますか? 

そうなんですよね。私は常々黒いアッコちゃんをやりたいと思っていました。私は強烈な個性を持つ女性に振り回される女性の話をずっと書いているつもりで、『ランチのアッコちゃん』を出したときに「これのダークバージョンもできるな」と思ったんです。アッコちゃんとカジマナの決定的な差というのはアッコちゃんは同性と連帯ができる人で、カジマナはできない人だというところです。アッコちゃんは困っている女の人を見ると助けずにはいられないんですが、カジマナは楽しそうな女の人を見ると傷つけずにはいられないんです。そこが決定的な違いだと思います。

──男性優位主義のカジマナが同性の友達を求めて料理教室に通っていたり、実は女性にことばかりを見ている、という描写がとても興味深かったです。彼女がこれから親族以外の女性と信頼関係を築けることはあるのでしょうか。 

酒井順子さんが書かれているような「男尊女子」という男性に甘くて女性には厳しい目を向けて、同性斬りみたいなことをする人って実際にいるじゃないですか。「女の友情なんて存在しない」とか「女子会なんて傷の舐め合い」って言ったり。でもそういう人の話をよく聞いてみると、私以上に女性の連帯に期待する気持ちが強いんじゃないかと感じることがよくあって。話をよく聞いていると、実は昔大親友がいたのに裏切られたとか、他の女性たちから背中を向けられた経験みたいなものがあって、それがくすぶって「女が怖い」ということになっているんじゃないかということが多くて。 もしくは『ナイルパーチの女子会』でも書いたんですが、女性の友情に対して異常に期待値が高くて、ちょっとでも自分の思っていたことが叶わなかったり、相手と話が合わなかったり、反対意見を言われると「何よ、女の友情ってこんなものじゃないじゃないはず。これは友情じゃない!あんたは友達じゃないんだ!」みたいになってしまう人もいて。だからこれはちょっと飛躍しすぎかもしれないですが、ミソジニー的な発想をする人ほど実は女性の友情に対する期待値が異常に高いと思うんです。

あと女子会に冷たい視線を浴びせる男性も、女性の世界が自分たちの入れない桃源郷のようなところ、みたいにすごく楽な世界をイメージしていて、そこに入れないから苛立ってしまうみたいな部分もあると思います。だから実は色々探るうちに、女性の連帯に厳しい人たちほど、何かのきっかけけで、連帯側に転じるのではないか、という確信が強まってきました。カジマナのように「男の人は立ててあげなきゃ」みたいなことを言う人も実は少し話せばこっちの仲間に引き入れられないかなという。なので分断をしたくないという気持ちが強まりました。 やっぱり、女子会に意地悪な目を向けがちな人は女子会に行きたいんですよ。そんな楽しい、楽で傷付け合わない世界があるということが許せないんだと思います。だから怠けてるとか傷の舐め合いと言ってしまうんだと思います。そういう人こそ一度女子会に来てみるといいんですよ。

──ミソジニーな発想をする人こそ女性の友情に対して異常に期待値が高いという意見、すごく共感します。理想がすごく高くて、その基準から少しでもずれたら友情として認めない、という。

そうそう。たとえば女性同士の親友の関係性を見た時に、「すごい信頼関係で結ばれていて、昼夜ずっと一緒にいるんだろうな」「なに?頻繁に連絡を取っていない?!はい友情はない!本当に親友ならずっと隣にいてなんでも分かち合うんだろう?!離れているなんておかしいだろ!」みたいになる人っていて、親友さえいれば寂しさや孤独感や嫉妬もないと思っているんですよね。ある意味、純粋で真面目なんです。あと親友同士でどちらかに恋人ができたときに、素直に応援できないときもあるじゃないですか。そういう気持ちも「はい女同士のドロドロ〜!」みたいになってしまって。

だからたぶん、そういう人は女性同士の友情に私たち以上に期待をしていて、むしろ長い付き合いの女友達がいる女性の方が諦めているところもあると思います。 「分かり合えないところもある、でもここで分かり合えているからいいじゃないか」とか、「すれ違ってしまうときもあるけどそういう時もあるよね」みたいに友情で救われた経験のある人の方が、悟ってるんですよ。女性同士の関係において「気が合わない、考え方が合わない時もあるけれど、でもあんな一時を過ごせたじゃないか」というふうに考えるときってよくあると思うんですが、女性同士の関係に全く成熟していない価値観を持っている人って、友情には山があり谷があるということが、よくわからないし、認めたくないんだとおもいます。 でもそれって考えようによっては逆に女同士の友情に対する期待値が高いということだから、実はちょっとした気の持ち方でこっちに転じてくれるんじゃないかなという気がしています。

女友達が苦手という人の話を真剣に聞いてると、「あれ、この人全然諦めてない!」って驚くことがあります。だからフェミニストや女性同士の連帯を信じている人の方が女性同士の裏切りや女性の別離に対して寛容というか、ポジティブだと思います。たとえば片方が彼氏を優先したときでも「まあまた戻ってくるでしょ」みたいな反応が多いと思います。 女性の連帯に懐疑的な人ほど、女性をあらゆる属性でランク付けしなにかと分断したがりますが、実は傷ついているのは彼らや彼女たちなんですよね。 

だからカジマナも里佳と伶子の関係を見ながらイライラして、2人の関係をぶち壊してやりたいという気持ちがずっとありながらも、やっぱり目が離せなくて、この2人はどうなるんだろうという、かつてないワクワクも味わったと思うんです。 私も昔はミソジニストや女性の連帯に厳しい人たちとはできるだけ関わりたくなかったんですが、最近そういう人たちとゆっくり話してみて、話をよく聞きたいなという気持ちが芽生えてきました。それも『Butter』を書いている上でのいい自分の変化だったと思います。


──次回作についてお話を伺えますか。 

4月に出る、婚活がテーマのお話です。女性って分断されがちだなと常々思っているのですが、今回は婚活によって主人公の女性が親友と引き裂かれてしまう話です。まさに『Butter』の伶子がヒロインくらいに思ってもらえればいいと思います。 主人公は妊活のために仕事を辞めて、夫の実家の喫茶店を手伝っている35歳の女性で、彼女には18歳で出会ってからずっと夢中になっている本当に大好きな親友がいます。その親友はかつてアイドルを目指していて、彼女はその夢を20歳で諦めてからは「デートクレンジング」というすごくフェミニズム的で男に媚びない元気いっぱいの5人アイドルグループのマネージャーをしていました。だからタイトルも「デートクレンジング」です。でもそのアイドルたちが失脚して解散をしてから彼女は「もう自分のやっていたことは全て意味がなかったんだ」という考え方になってしまって、ふぬけのようになってしまいます。それを見た主人公はかつてはすごく輝いていた親友が本当にボロボロになってしまっているので、うろたえます。

デートクレンズ、というのはアメリカにある概念なんですが、アメリカってデート文化で、デートをしていないと人間じゃないっていうくらいのカップル文化ですよね。でもそうしてデートばかりして、1年に何度もブラインドデートをしていると目が曇ってきて自分が一体何を好きなのかが分からなくなってくる。だから「デートクレンジング」は意識的にデートをしない時期を作ってその期間に友達と会ったり、趣味や仕事に打ち込んだりすることによって自分が本当は何が向いているのか、どんな人が必要なのかということが見えてくるという考え方です。 その親友がマネージャーをしていたアイドルグループの女の子たちは 「デートなんていいじゃない、デートクレンジングしよう!女同士でキャンプをしよう!」みたいな歌を歌っている5人組なんです。 その親友はアイドルを目指していたくらいだからすごく美人で、マネージャーとしても仕事にすごく自信を持っていたんです。でも10年間その子たちとずっと一緒にいて、プライベートでは男性とほとんど喋らないで生活をしてきたから異性とどう話していいのかが分からないんです。

それが初めて「私は婚活をして結婚をしなければいけない」「子供を産まなければいけない」という価値観に触れて取り憑かれてしまうことで、どんどんおかしくなっていくんです。主人公はその親友を止めようとします。なので基本的には主人公が婚活にはまりすぎて自分を見失っている親友を取り戻す話なのですが、主人公はその親友を止めるためにそのアイドルの楽曲を歌ったりします。でも主人公が既婚なので、彼女が未婚の親友に何か言うと「上から目線じゃないのか」とか「ありのままでいいと言って励ますけど、親友が幸せになるのが癪にさわるだけじゃないのか」みたいな言説が横からたくさん入ってくるんです。それで婚活市場とアイドルは似ているなと思うところがあって。どうやったら自分らしくいられるかということがテーマでもあるんですが、結構驚く結末が待っていると思います。

柚木麻子(ゆずき・あさこ)
1981(昭和56)年、東京都生れ。2008 (平成20)年「フォーゲットミー、ノ ットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。ほかの作品に 『ランチのアッコちゃん』『伊藤くん A to E』『その手をにぎりたい』『奥様はクレイジーフルーツ』などがある。

Tsukasa
Sister Magazine編集部。文筆やインタビュアー、ときどき翻訳をして活動中。
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