あなたは私だ


 ── 以下、きんさん(kk21cxoxo)の許可をいただいて文章を引用させていただいています。

韓国、カンナム駅10番出口のカラオケ店の女性トイレで、20代前半の女性が面識のない男性に殺害された。
犯人は1時間半ものあいだ標的を狙っていた。
被害者を殺害した理由は「(社会の)女性に蔑ろにされたから」と明かされている。
そのカラオケ店はお酒もなく喫煙禁止で、一般のカラオケ店より値段は少し高いけれど、その分綺麗で若者が安全に遊べる有名なカラオケ店。
そこに彼氏と遊びに来ていた女性が殺害された。
1時間半もの間、その女性だけがトイレに訪れただろうか。決してそんなことはありえない。犯人は自分より弱い標的を、一人でやってきた20代の女性を待っていた。

女性だから殺された。

女性嫌悪が原因で、女性だから殺された。しかもソウルに住んでいる人なら一度以上は行ったこと、通ったことがある場所で。
私の運が良かっただけで被害者は私だったかもしれない。 

男性にとっては、次の被害者は妻かも、母かも、娘かも、妹かもしれない。だけど女性にとっては、次は私かもしれない。 

これは女性蔑視だと大きく波紋を呼び、女性達が主体となってカンナム駅10番出口には哀悼の意を表したポストイットや花束が。

事件発生当初、数えるほどしかなかったニュース記事はこの哀悼の影響を受け、少しづつ増えた。このまま埋もれてしまう可能性のあった事件、社会への問題提起の呼びかけが成功した。 
しかし問題は山積み。  

まず、事件発覚当初に記事の量が少なすぎる。男性が被害にあった事件と比べて、確実に少ない。 

 ニュース記事のタイトルが 
「女性に軽視され、30代男性が女性を殺害」
──なぜ被害者女性ではなく加害者男性の犯行動機にスポットを当てて記事の見出しを書くのか。 

「犯人の夢は牧師」 

── なぜ人を殺した犯罪者の夢を知らなければいけないのか。知る必要がない。当の犯人は一人、何の罪も無い女性の将来を、夢を奪ったというのに。 

これらの表現、記事によって、犯人に同情する人々。 
「男を蔑ろにした女が悪い」「殺させるなよ」などという低レベルな女性蔑視の数々。

「牧師が夢だったのに女のせいで…」 
的違いもほどほどにして欲しい。  

「その時間にトイレに行く女が悪い」 
なぜ毎回被害者に責任を問うのか。午前1時、夜自習が当たり前の韓国では高校性でも夜中12時までは塾や学校で勉強する。夜勤大国の韓国で成人女性が夜中1時に外を歩いていることなんてごく当たり前のこと。しかも繁華街のカンナム。 

普段は夜中でも歩ける治安の良さを売りにするくせに、こういう時だけ「その時間に出歩くのが悪い」 

決してネチズンだけではない、女は男を怒らせてはいけない、蔑ろにしてはいけない、などという思想がこの国には染みついている。決して全ての人がそうだというわけではないけれど、ここまで思ってなくてもこの国の男尊女卑的な思考に染まっていない人なんていないんじゃないか。悔しいけれど私や女性達も簡単にそれからは逃げられない。 

こういった犯罪の被害者の10人に9人は女性、性犯罪の多さはOECD国家中1位。

女性を同じ人間だと思っていない、女性蔑視が当たり前の社会。ため息しか出ない。


***
この事件のニュースを見てわたしはすごく見覚えがあるものだと思ったし、このようなことは日本でも頻繁に起っていることだと思った。 

たとえば数日前に発覚した、沖縄で20歳の女性が米軍所属の男に強姦され、殺害された事件。 
犯人はこの犯行について「狙う女性を2〜3時間探した」と語っている。 
そしてふと見かけたあるニュース記事のタイトル。   

「容疑者、子供生まれたばかり」 

容疑者を憐れんでくれと言わんばかりの加害者男性に焦点を当てたタイトル。
人を殺した犯人の事情などニュース記事のタイトルにする必要があるとは到底思えない。   
そして特に沖縄では何十年にも渡ってこのような事件が起きているし、今年3月にも米軍所属の男による強姦事件が発生している。そしてこういった女性が被害者となった事件が起こるたびに出てくるのが被害者に責任を問うような意見だ。「夜に女一人で歩いているのが悪い」「男を誘うような服装をしているのが悪い」   

こうした時にどうしてそんなに加害者を庇いたがるような意見が出てくるのか。そういった人たちと同じ社会に暮らしていると思うだけで恐ろしくなる。女性が何時に外を出歩こうが、どんな服装をしようが、それはわたしたちの自由で、もし事件に巻き込まれたとしてもそれは私たちのせいではない。例えば男性が夜に出歩いて誰かに殺害されたとしても、被害者を行動や服装を責めるような意見が出てくるだろうか。どんな時間帯にどんな服装をしていたって、いつも悪いのは加害者なのに。  

そして今回の沖縄の事件では現地から強い怒りの声が上がっている。沖縄で女性の人権を守る活動を続けている「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の方々が行った会見の中で、被害者女性と同年代の女子学生が語った、とても印象的な言葉があった。
「私も(被害者と同じように)夜に歩きに行ったりする。被害者はもしかしたら私だったかもしれない。」   

今回の引用させていただいたきんさんの記事でも、カンナム駅に貼られたポストイットに書かれた言葉にもあった、「私だったかもしれない」という言葉。私だって夜外に歩きに行ったりもするし、カラオケにも行く。そして「女性だから」という理由だけで被害を被ることになるのなら、私が被害に遭う可能性はいつだってある。   

そして被害に遭う可能性だけでなく、被害に遭ったあとも心ない人たちに責められたり、尊厳を傷つけられる可能性まであるのだ。 これは全く他人事ではない。そしてわたしはそのことに強く抗議する。変わらなくてはいけない、変えなくてはいけない、と心から思う。   

そしてこうした事件は韓国だから、日本だから、ではなくそれよりももっと大きなものだと思う。これらの事件は少なくとも東アジアの女性を取り囲む状況や社会の歪みを顕著に表してしまっている。 今回事件の被害者となった2人の女性のご冥福を心からお祈りします。


Tsukasa
Sister Magazine編集長。文筆やインタビュアー、ときどき翻訳をして活動中。
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Twitter: @tsscarlett