そいつは、冷たい夜にやってきた

わたしが小学2年生の時のお話です。

ひとり風呂デビューをしてから約1年後の、寒い夜でした。わたしは先に寝て、母がお風呂に入っている時のこと。わたしがウトウトしていると、急に体に重みを感じました。目を開けると、父が「寒いね、寒いね、」と言いながらわたしの上に乗っかって、わたしのパジャマの、下着の中に手を突っ込んでいました。

はじめは冗談ぽく「やめてー」と言って押し返していましたが、吐き気がする臭いと耳を塞ぎたくなる息づかいと体を這いずり回る生ぬるい手に、わたしは怖くて、悲しくて、気づいた時には父の首に手をかけていました。父は驚いたような怒ったような顔をしてわたしの手を退かそうとし、わたしも急いで自分の手を退かそうとしましたが、何かに体が乗っ取られたみたいに、その手はどんどん力を強めていきました。声も出ず、どうしようどうしよう止めて止めて、と必死にもがいていると、急に全身の力が抜け、自分の視界が変わっていることに気がつきました。

信じてもらえないかもしれませんが、わたしは寝室の天井にいて、わたしと父のいる布団を上から眺めていました。(これって幽体離脱...?)父は急いで、寝室を出ていきました。そこに残ったのは、わたしと、わたしがいたはずの場所に寝そべっている白い人影のような物体だけで、わたしはそれを何故だか“僕”と呼び、“僕”はわたしのことを何故だか“ガラ”と呼びました。

こうして、“僕”との生活が、ある日突然始まりました。

両親や友人、先生には見えていないようでしたが、“僕”は、四六時中わたしの傍にいました。「え、おばけ?」「幽霊?」「宇宙人?」などなど色々ご意見あるかと思いますが、いっしょに住んでいた猫やご近所のカラスが全く反応しなかったので、そういった類のものではないんだろうな〜とわたしは なんとなく思っていました。“僕”は、すっごい、しゃべります。

その方法は少し特殊で、声や音を発するのではなく、メールみたいに、わたしの頭の中に“僕”の言葉が文字やイメージとなってパンッ!と、ピロリロリン!と、受信されます。わたしがそれに対して返事をすることはありませ ん。声に出して返事をしたら一人でしゃべってる変な子だと思われるし、“僕”がするみたいな「文字やイメージの送信」ってどうやればいいのか、わからなかったからです。それに、“僕”のおしゃべりはとても面白かっ たので、聴いているだけで満足でした。

ただ、一度だけ、“僕”と言葉を交わしたことがあります。それは19になる年の冬、冷たい雨の降る夜、夢に“僕”が出てきた時のことです。星の降る丘で“僕”が「もういいかい?って言ってみて」と言うので、わたしが「もういいかい?」と言うと、「もうちょっと、あとちょっと、で、いいよ。」 と“僕”は言いました。 

その年の夏、わたしと母が父の元を去ると、“僕”の姿は見えなくなりました。あの冬の日に出会って10年後、夢ではじめて言葉を交わしてから、5ヶ月後のことでした。

“僕”が見えなくなってから、わたしは人に触れることが出来なくなりました。電車やバスに乗ったり人の多くいる場所が怖くて、通っていた大学の授業をよく欠席しました。終いには、母や友人に一切相談せずに、辞めてしまいました。病院にも行かず誰にも本当のことを言わなかったのは、母に心配をかけたくなかった...のが表向きの理由で、本音は、自分は女性だからって決して弱くはない、狂ってなんかないと、自分自身から目を背けたからで す。人の優しさに触れても、どんなに親切にされても、常に「独りぼっち」 の感覚に襲われ怯えていました。わたしはそれから暫く、自分がどこにも存在していないような、ふらふらとした生活を送りました。

では、何故いまこうやって超個人的な昔話をバーッと書いているのかというと、写真という表現やある映画がきっかけで、自分と、それから周囲と向き合うことが少しずつ出来るようになってきたからです。写真を撮ることは楽しくて、わたしの全てを持って臨める、最高の表現手段です。そして、ある映画を観たことで「“僕”は、わたしの中に戻ったのかもしれない」と考えるようになりました。それが果たして、世間一般的に正しい考えかはわかりません。でも、わたしの中ではしっくりきているので、それでいいのだと今は思っています。(いつかどこかで、その映画のお話ができたらいいな)自分と向き合い始めたことで、わたしの傍には家族や友人がずっといてくれたこと、誰かが傍にいてくれるだけで安心出来るのだということ、そんな当たり前のことに、やっと気づくことが出来ました。

この記事を読んで下さっている方の中にも、「どうしようもない孤独」を感じている、もしくは、これからそういった場面が訪れる方もいるかもしれません。それを消すことはわたしには出来ないけれど、その“孤独”といっしょに生きていく「ひとつのきっかけ」になれればいいなと思いながら、この文章を書いています。好きなもの、嫌いなもの、考え、想い、持っているもの はみんな様々ですよね。それゆえ、人間はみんな、孤独です。人間に限ったことではなく、動物や植物、命あるもの全てにいえることだと思います。だからこそこの世界は、“孤独”と“孤独”がともに生きることが許され、いっしょにポジティブなエネルギーを作っていくことができるのだと、わたしはそう信じています。

今日は昨日よりも、笑って生きることの出来る命が増えますように。

ここまで読んでくれて、ありがとう。


ふじ がら
1993年生まれ。2017年より写真などの作品制作を始める。2017年10月、 1stZINE「まどろめ、日本よ!」を発行。
HP: http://www.fujigara.com/
Twitter: @Gara_f9646