「ガラスの城の子どもたち」という小説がある 。定職に就かず、酒に溺れて「ガラスの城」を砂漠に建てると言い張りギャンブルばかりしている父親と、絵ばかり描いているアーティストの母親に振り回される子どもたちの物語だ。
彼らは両親のネグレクトのせいで常に困窮していて、食料が買えずに残飯を漁る生活をしている。大人になるにつれてその状況から抜け出そうと奮闘し、最後にはその境遇に打ち勝つ。しかし、彼らは父親を失うことになる。
この物語はノンフィクションで、語り手は一家の次女、現在コラニストとして大成功を収めているジャネット・ウォールズだ。私はこの本を読むたび、これ以上に私の心の近くにある物語はないことを再確認する。特に私はジャネットの父、レックス・ウォールズの中に自分の父を見たからだ。
私が6歳のころ、父は家を出て行った。母はシングルマザーとして苦労して私を育てた。月収が10万円ほどしかない貧困家庭だったけれど、よく話を聞いてみると、父親の育った環境は私の育った環境よりもさらに劣悪だった。
電車さえ通っておらず、車無しでは都市に出ることもできない田舎の団地で父は生まれ育った。父の父親は幼い頃に蒸発し、親はいつもギャンブルに明け暮れていた。家は掃除をする習慣がないため、何層にも積もった埃やギトギトにこびりついた油だらけ。朝ご飯はカップラーメン、夜ご飯は値引きされたスーパーの惣菜。父や兄弟たちはネグレクトされて育ったという。
父はその地域では珍しく本を読んだり、映画を観たりするのが好きな人だった。小学生の頃、数年ぶりに会ったばかりなのに「この映画を観なさい」と私が観るべき映画のリストを偉そうに私に渡してきたことを今でも覚えている。そのボロボロの紙はいつも父が吸っていた煙草の匂いがした。
父は四人兄弟の長男で、高校卒業後すぐ運送会社で働いた。そこはいわゆるとても体育会系気質の会社で、仕事内容も環境も父の性格とは合わず、とてもやりづらかったのだろう。
その後、父は突然会社を逃げ出して、家族を置いてひとり田舎に戻った。そこで深夜のコンビニのアルバイトやパン工場の作業員、そういった非正規の仕事をしながら暮らしていた。
けれど、結局どれも長続きしなかった。養育費どころか、母に借りたお金さえ返せなかった。しばらくして、健康管理が滅茶苦茶だったせいか、病気をして40代半ばで亡くなってしまった。
ほんとうはもっと他の生き方があったはずだった。4人兄弟だったせいで、年長者が働いたお金で末っ子だけが大学に行けた。父は長男で、そんな選択肢は持てなかった。
もしもっと違う環境に生まれていたら。たとえばもし大学に行って好きな勉強をして、自分に合った仕事をしていたら。カップラーメンばかりじゃなく健康的なものを食べていれば、今も生きていたのではないかと想像することがある。会社員が受けるような健康診断を受けたこともなかったのだろう。
世界史が好きで世界地図が頭に入っていて、私も知らない国の首都の名前まで全て覚えていたような人だった。だけど、一度も日本を出たことはなかった。
私は貧困から必死にもがいて奨学金でアメリカに留学をした。大学に受かったとき、留学に出発する朝、いつも父の歩かなかった道を歩んでいるのだという感覚があった。そんなとき偶然、父が亡くなった週に「ガラスの城の子どもたち」の最終章を読んだ。大学の授業の課題書だったのだ。
電車の中だったけれど、涙が止まらず息をするのも苦しかったことを今でも覚えている。 私と父の物語がここにあると思ったからだ。
今なら分かるが、私と父は似ている。ジャネットが描く、最悪の父親でも嫌いになりきれない気持ちに共感した。そして彼が最後に残した言葉にも。それは私と父の最後の別れ方にそっくりだった。父は私に対してずっと罪悪感を持っていて、娘に嫌われている、と周囲の人に言い続けていたようだった。
たしかに無責任な親だったが、私はもう彼に対して怒っていない。「ガラスの城の子どもたち」でも描かれていたように「普通」に社会に順応して生きられない人には、目に見えなくともそれだけ何らかのハンデがあるのだ。いまそのことを父に伝えることができたらどんなにいいだろうと思う。
私はいま、父が持たなかった生活を送っている。ウエスト・ヴァージニアのスラム街からニューヨークのパーク・アベニューに引っ越したジャネットのように。自分で住む場所を選んで都会に住み、父が好きだったものに囲まれて暮らしている。
もし私と父が違った環境に生まれていたら、父の仕事が終わったあとどこかで待ち合わせをして映画を観て、レストランに入って感想を語り合って、同じ家路につく。そんな未来があったのかもしれない。
私はそうやって実現することのない未来を想像する。その夢が叶うことはないが、この物語はずっと私の元にいてくれるだろう。私だけの物語を抱えて今日も暮らしていくのだ。
*ジャネット・ウォールズ著、古草秀子訳「ガラスの城の子どもたち」は現在「ガラスの城の約束」というタイトルで早川書房から出版されています。2017年にはブリー・ラーソン主演で映画化、同タイトルで日本公開されました。
Tsukasa
Sister Magazine編集部。文筆やインタビュアー、ときどき翻訳をして活動中。
Instagram @tsscarlet
Twitter: @tsscarlett
この物語はノンフィクションで、語り手は一家の次女、現在コラニストとして大成功を収めているジャネット・ウォールズだ。私はこの本を読むたび、これ以上に私の心の近くにある物語はないことを再確認する。特に私はジャネットの父、レックス・ウォールズの中に自分の父を見たからだ。
私が6歳のころ、父は家を出て行った。母はシングルマザーとして苦労して私を育てた。月収が10万円ほどしかない貧困家庭だったけれど、よく話を聞いてみると、父親の育った環境は私の育った環境よりもさらに劣悪だった。
電車さえ通っておらず、車無しでは都市に出ることもできない田舎の団地で父は生まれ育った。父の父親は幼い頃に蒸発し、親はいつもギャンブルに明け暮れていた。家は掃除をする習慣がないため、何層にも積もった埃やギトギトにこびりついた油だらけ。朝ご飯はカップラーメン、夜ご飯は値引きされたスーパーの惣菜。父や兄弟たちはネグレクトされて育ったという。
父はその地域では珍しく本を読んだり、映画を観たりするのが好きな人だった。小学生の頃、数年ぶりに会ったばかりなのに「この映画を観なさい」と私が観るべき映画のリストを偉そうに私に渡してきたことを今でも覚えている。そのボロボロの紙はいつも父が吸っていた煙草の匂いがした。
父は四人兄弟の長男で、高校卒業後すぐ運送会社で働いた。そこはいわゆるとても体育会系気質の会社で、仕事内容も環境も父の性格とは合わず、とてもやりづらかったのだろう。
その後、父は突然会社を逃げ出して、家族を置いてひとり田舎に戻った。そこで深夜のコンビニのアルバイトやパン工場の作業員、そういった非正規の仕事をしながら暮らしていた。
けれど、結局どれも長続きしなかった。養育費どころか、母に借りたお金さえ返せなかった。しばらくして、健康管理が滅茶苦茶だったせいか、病気をして40代半ばで亡くなってしまった。
ほんとうはもっと他の生き方があったはずだった。4人兄弟だったせいで、年長者が働いたお金で末っ子だけが大学に行けた。父は長男で、そんな選択肢は持てなかった。
もしもっと違う環境に生まれていたら。たとえばもし大学に行って好きな勉強をして、自分に合った仕事をしていたら。カップラーメンばかりじゃなく健康的なものを食べていれば、今も生きていたのではないかと想像することがある。会社員が受けるような健康診断を受けたこともなかったのだろう。
世界史が好きで世界地図が頭に入っていて、私も知らない国の首都の名前まで全て覚えていたような人だった。だけど、一度も日本を出たことはなかった。
私は貧困から必死にもがいて奨学金でアメリカに留学をした。大学に受かったとき、留学に出発する朝、いつも父の歩かなかった道を歩んでいるのだという感覚があった。そんなとき偶然、父が亡くなった週に「ガラスの城の子どもたち」の最終章を読んだ。大学の授業の課題書だったのだ。
電車の中だったけれど、涙が止まらず息をするのも苦しかったことを今でも覚えている。 私と父の物語がここにあると思ったからだ。
今なら分かるが、私と父は似ている。ジャネットが描く、最悪の父親でも嫌いになりきれない気持ちに共感した。そして彼が最後に残した言葉にも。それは私と父の最後の別れ方にそっくりだった。父は私に対してずっと罪悪感を持っていて、娘に嫌われている、と周囲の人に言い続けていたようだった。
たしかに無責任な親だったが、私はもう彼に対して怒っていない。「ガラスの城の子どもたち」でも描かれていたように「普通」に社会に順応して生きられない人には、目に見えなくともそれだけ何らかのハンデがあるのだ。いまそのことを父に伝えることができたらどんなにいいだろうと思う。
私はいま、父が持たなかった生活を送っている。ウエスト・ヴァージニアのスラム街からニューヨークのパーク・アベニューに引っ越したジャネットのように。自分で住む場所を選んで都会に住み、父が好きだったものに囲まれて暮らしている。
もし私と父が違った環境に生まれていたら、父の仕事が終わったあとどこかで待ち合わせをして映画を観て、レストランに入って感想を語り合って、同じ家路につく。そんな未来があったのかもしれない。
私はそうやって実現することのない未来を想像する。その夢が叶うことはないが、この物語はずっと私の元にいてくれるだろう。私だけの物語を抱えて今日も暮らしていくのだ。
*ジャネット・ウォールズ著、古草秀子訳「ガラスの城の子どもたち」は現在「ガラスの城の約束」というタイトルで早川書房から出版されています。2017年にはブリー・ラーソン主演で映画化、同タイトルで日本公開されました。
Tsukasa
Sister Magazine編集部。文筆やインタビュアー、ときどき翻訳をして活動中。
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